「特に意識して記憶している訳じゃないのに、
ずっと頭に残っている言葉、
ふとした時に甦ってくる言葉ってあるよねぇ」
1月21日に実施した「ブルネレスキの卵」のトライアルターム#1で、
最後の振り返りの場で他のチームから出てきたことば。
自分のチームではなかったので、
どんな文脈で生まれたのか詳細は分からないけれど、
終了後もこれが頭の片隅に残っていて、
自分にとっての「ふっと甦ってくる言葉」が浮かんできた。
これからも浮かんでくるかもしれないが、
ここ数日浮かんできた2つについて、ふりかえってみた。
●「お前が考えるようなことは、みんな考えてるんだ」
幼い頃、大人たちが作業している時に、叔父に
「ねぇねぇ、こうしたらいいんじゃないの?」
「お前が考えるようなことは、(大人は)みんな考えてるんだ」
と叱られた(?)記憶がある
恐らくその当時の状況からすると、
大人が取り組んでいることに小さな子供が絡んできて
邪魔になったんだと思うので、
悪気のある対応ではなかったと思う。
しかし、その時の幼い自分にとっては、
「みんな分かっているんだ。言っても意味がないんだ」
と、無力感を感じ、無意識のうちに
その後の自分自身を縛る言葉になっていたようだ。
数年後(といっても小学生)のある時、
何かの作業をしている父に
「どうして、こうしないの?」
と尋ねたことがあった
「あー、それは気づかなかった。教えてくれてありがとう!」(父)
みんな気付いていて選択しないんだと思っていたので、
逆に新鮮だった。
と同時に自分も役に立てるんだ、
という自信にもなったような気がする。
不思議なことに、両方ともに、
具体的な作業の内容などは全く覚えていない。
叔父の対応、父の言葉に良い悪いはないと思う。
私にとっては、叔父の対応があったからこそ、のちの父のことばが生きてきた。
それに、その時にどう受け止めるか、
その後にどう影響するかなんて
人によって違うので、
そこまで考えていたら、何も言えなくなってしまう。
両方ともに、必要な体験だった。
無駄なことは一つもない!
●求めよ、さらば与えられん
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」(新約聖書)
中学1年の最初の英語の授業で、先生が紹介してくれた。
先生自身がクリスチャンだったわけでもないと思うし、
中1になったばかりの私は聖書に触れる機会もなかったので、
その時は違和感しかなかったように思う。
が、特に「門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」
というフレーズが妙に記憶に残っていた。
「さがせ、そうすれば見いだす」というのは、
自助・自力なのでよく理解できる。
「求めて、与えられる」「叩いて、開けてもらう」というのは、
自分だけではどうしようもないこと。
その不確かさを信頼して行動しなさいということに、
違和感を覚えたのかもしれない。
また、当時は自律・独立心が旺盛で、
親の庇護の下ではなく、自分で生きていける力が欲しい
と強く思っていた時期でもあったので、
依存するような文脈に捉えて、
違和感を覚えたのかもしれない。
もう少し掘っていくと、もっと深いものが出てくるかもしれない
・・・自分の中の新たなテーマになってきた。
ワクワク!
#ブルネレスキの卵
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