【天災は忘れたころにやってくる】
今回のコロナ禍も、東日本などの震災も
「未曾有」の出来事ではなく、
人類の予想をはるかに超える未経験のものでもない。
歴史上、何度も繰り返されてきている。
そして、先人はその教訓を後世に残そうと工夫してくれた。
津波避難の基準として「神社まで逃げなさい」といった伝承もそうだろう。
少なくとも、100年前のスペイン風邪の記録は詳細に残っている。
「流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録 」 内務省衛生局編/東洋文庫
手洗い・うがい、マスクをして、距離を取る。
営業制限等に加え、マスクの高値転売まで、
現在と同じことが起きていたという。
しかし、それでも、それらの教訓は活かせていないことが多いように見える。
100年に一度起こることに対する備えは、
効率の悪い無駄なコストであり、
生産性や効率等の成果を求める指向性とは合致しない。
科学的根拠のない言い伝えや伝承を信じて、
無駄骨を折るのはナンセンスに見える。
誰だって無駄なことはやりたくない。
そして、大きな災害が起きた時には、大きな被害が生まれる。
目先の効率を求めて、より大きな効率性を失っているのかもしれない。
旧約聖書のノアの箱舟を思い出す。
大雨の気配すらないのに、
よりによって山の頂に
大きな船をつくるノアとその家族を、
周囲の人々はどのように見ていただろうか。
まったく合理的ではないその行為は
控えめに言っても
好奇の目で見ていたことは想像に難くない。
むしろ嘲笑の対象だったかもしれない。
歴史を通して、人類は同じことを繰り返してきている。
その良し悪しは分からない。
大きな被害は悪かった面だろうが、
無駄なことはしない効率性を求めることで
少なくとも災害と災害の間の期間は幸せに暮らすことができたとも思う。
私たちは
・これまで[過去]にどんなことをしていたら(Do)良かったのか
・これから[未来]どうしたら(Do)良いのか
を考えることはあるが、
・今回の出来事を通して、自身の中で何が起きたのか
・(教訓として)何を得たのか・学んだのか
・自身の人生で大切にしたいこととして、何を加えるのか
といったことに対してはあまり意識を向けない
もし、数多の賢人が語るように
「起こること(体験すること・遭遇すること)には意味がある」とするならば、
自身にとってのその意味や価値を探究しなければ、
繰り返し似たような経験をすることになるのではないだろうか。
個人であっても、組織であっても、社会であっても・・・
あっ!ここまで思考を巡らせてきて、気付いた。
人類は同じことを繰り返し経験してきている!!
ということは・・・
わたしたちは、
今回の一連のコロナ禍を通して、
どんなことを体験したのだろうか
そこには、どんな意味があったのだろうか?
私は、どんなことを得て、何を大切にして生きたいと思っているのだろうか。
6月に入れば、「元に戻ろうとする活動」が
少しずつ社会全体に広がるだろう。
と、ぼんやりとした思いから、
思いがけず広がった5月末の思考のあそび。。。
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